私の病気の話

「看護師になれ」しか言わない母と対立した高校時代

小学生の頃から、心理カウンセラーになるのが夢だった。人の話を聞くのが好きだった。

高校の進路選択も、心理学をはじめ人文学系のところを志望しようとした。が、母には猛反対された。

「手に職を付けられるような学部じゃないと行かせてやらない。」「大学院にはいかなる理由があろうと進ませてやれない、金がない。」

これが母の主張だった。手に職、というのも条件がさらにあり、「国家資格が取れること」「雇用があること」「高給であること」も重要らしく、もっとこちらが問えば、つまりは「看護師になれ(看護学部に行け)」ということだった。

私が、人文学系のところに行きたいなどと言えば、「何の勉強ができるの?」「資格は何が取れるの?」「就職は有利になるの?」と責められ、私は何も返せなくなる。何を言ってもおかしなことを返され、当時の私には母を説得する技術も懐の深さも持っていなかった。そして決まって最後に「だからお前は、看護に行きなさい」のオチが決まりだった。このくだりは、高校在学中の特に後半、ほとんど毎日繰り返されることとなった。

大学は、もともとは研究機関である。研究したい者、あるいは学問も深めたい者が行けばいいところである。それに今の時代、やりたいことが明確になくても、行ってみてやりたいことを見つけたって、いい。そんなところに、資格だとか技術を身に着けるとかを始めから求める方がどちらかと言えばおかしい。けれど母にそんなことが理解できるわけが無かった。

しかも、私は看護師には向いていないと幼い頃から自覚していた。

幼少期に入院したことが何度かあって、その時に小児の看護師さんに大変お世話になった。とてもよくしてくれて、たくさん褒めてくれて、いつもニコニコしてて、退院するときには、キラキラのビーズとリボンと上手なイラストで飾り付けた可愛いメッセージカードまで用意してくれて、本当に嬉しかった。それと同時に、こんなに大変な仕事は私にはできないと悟った。

高校時代の私は今までの人生の中でも特にひねくれており、高齢者に対する医療制度への不信感が大きかった。私が看護師になれば、相手をするのはきっと高齢者だ。多分私は、自分の仕事に誇りを持つことができないとも分かっていた。裕福な国である日本の、あとは死ぬしかない高齢者の医療に関わるくらいなら、戦地で苦しむ子どもたちの手当をしたい、日本の医療に関わるなら高齢者よりも(高齢者は他の人が助けるのだから私が特別関わる必要は無い)助けたい弱者が多い(元々心理カウンセラー志望だった)、それができないなら何なんだ?みたいな、今考えればそれもアホっぽいのだが、とにかく私だって思春期だった。

 

数年後に自分はADHDとわかるのだが、看護学部に行きたくなさすぎて受験勉強に取り組むことができなかった。興味のないこと、やりたくないことを耐えて取り組むことが苦手なのである。受験勉強は、暗記すればカバーできる部分も大きい。過去問を解けば傾向を掴めることによって点数が上がる。地頭の良し悪しもあるが、単純に努力量で何とかできることが多い。

しかし当時の私は、机に向かった瞬間に涙が出てきて勉強どころではなくなってしまう。土日は起きてから日が沈むまで布団の中で泣いていた。

私はやさぐれて、学校も休みがちになって、模試も真面目に受けなくなっていた。

みかねた母が「もう、お前の好きなところに行っていいよ」と私に言った。目が点になった。今までの私の気苦労を返せ、それしか思えなかった。だってもうその時は3年生の11月、いくら今から頑張ったって、国公立はどこも受かりはしない。

悲しくなるだけだから、と大学調べも全くやっていなかった。全国にどんな大学があるのか全く知らなかった。

 

やっと受験勉強に打ち込める

高校卒業後、大学に落ちた私は予備校に通わせてもらうことになった。

まずは大学調べから。高校受験時に私の家庭教師をしてくれた知り合いに相談したら、「特にここがいい!ってのが無かったら、東大を目指せ」と言われて、「アホか?」と思い、ちゃんと100パーセント自力で志望校を決めようと気合いを入れ直した。

勉強を頑張りまくって東大を目指すことがアホなんじゃなくて、東大の二次試験対策だけで1年以上はかかるのだ。東大を目指す人たちを高校生のときに間近で見ていた。私には時間がない。勉強がめちゃくちゃできる人だって実際のセンターで足切り食らってあたふたする可能性だって十分あるのだから、私が東大を今から目指すのはアホすぎと思った。この世界は残念ながらドラゴン桜ではない。

興味のある学問や、それを学べる学部のある大学を偏差値順に見ていき、現実的に目指せるところを絞った。

すると不思議と勉強に取り組めた。ペンを握ったり、テキストを読むことが苦じゃないのだ。感動だった。

そうか、みんな自分の行きたいところに行くための勉強をしてたからあんなに頑張れていたんだと、そのとき初めて気が付いた。

何度か受けた模試の結果も、悪くない。油断は禁物だが、このまま勉強を続ければきっと大丈夫。浪人になっても成績が上がることは無いとよく言われるが、私の場合はこれ以上下がりようが無いのだから、あとは上がるしかない。勉強すればするほど点が伸びた。そのくらい元々の成績が悪かった。でも楽しかった。予備校の先生の授業も本当に面白かった。

 

そしてうつ病

梅雨の時期に入る直前にうつ病を発症し、間も無くして寝たきり状態になった。

板書をノートに写せないところから始まった。板書を見て、ノートに写そうとする段階で、その内容を忘れてしまう。先生の話のスピードについていけない。あれおかしいな、気分転換でもするかと外を散歩するとなんだかフラついてまっすぐ歩けない。毎回参加していた授業に参加する気が起きない。何なんだこれ、もしかしてうつ…?と、疑い、すぐに学校近くの病院を予約した。本当にうつなら早く薬をもらって勉強に集中したい、うつじゃなくて甘えならそう言われておしまいでいいと思ったのだ。

初めは親にも黙って病院に通っていたが、日に日に病状は悪化し、自力では家から車で30分の病院に向かうことすらできなくなってしまい、結局親に精神科通いをカミングアウトすることとなった。

みるみる病気は悪化し、一番ひどい時は、3歩も歩くことができなかった。数歩足を動かしただけで、全身の力が一瞬にして全て抜けて、バタンと倒れてしまう。気が飛ぶわけではない。ただ、倒れてしまうのだ。壁やテーブルを支えに移動していた。

朝、目が覚めると、激しい絶望感に襲われるのと同時に、指を一本も動かすことができない。動かせるようになるまで3〜5時間かかる。親が私が起きているか心配して、1階から2階にいる私に向かって「起きてるけー!」と声をかけてくるが、返事なんてできないし、そもそもその声も頭に響いてとても辛い。

一日中、部屋のカーテンを閉めていた。そしてかけ布団を頭まで被る。気持ちが塞いでいるから、ではない。日光が辛いからだ。眩しすぎるのだ。

死にたいとかまで思うことは無かったが、勉強をしたいのに机に向かうことすらできない悲しさがあった。他の予備校生達は今日も勉強をできているのに、私は横になっているので精一杯の毎日。模試は現役の時のE判定揃いだったのが嘘のように、現役の時よりも偏差値の高い大学を志望していたがA〜B判定が多く、第一志望こそC判定だったが、このまま順調に勉強していけばどこかしらは受かりそうと言う予備校の担任の見立てだった。

でも病に伏せ、模試を受けることさえできなくなった。英単語の他動詞、自動詞もまだダメなところがあるのに、古文の助動詞だってまだ不十分なのに、小論文も書かないと衰えてしまうのに…現役の時には一切勉強に手をつけていなかった分、私は努力しないと合格できないのに…今日も何もできなかったな…という悲しさと焦りの鱗片が、まだ24歳の私の体のどこかに、ガラスの小さな破片のように残っている気がする。

今まで精神疾患に縁のなかった母は、はじめ、何もしない私を外に連れ出そうとした。温泉、整体、スーパーの買い物…本当にちょっとした用事ばかりではあるが。

“気分転換”をすれば、少しは改善されるのではないか、という母の考えだったらしい。

一度病院に母が同行し、「私はこうやって娘を外に連れ出して、よくしようとしてるんですが!」と言うようなテンションで話したら、先生が「え!?(こんな病状の人に)そんなことやってるんですか!?かわいそうです。お母さん、逆効果です。今すぐやめてあげてください」と言ってくれて、ああ救われた…もう無理して外に出なくていいんだ…と、困惑した母を尻目にホッとしたのも、昨日のことのように覚えている。温泉はお湯の温度に耐えるので精一杯、整体は整体師の先生の話に相槌を打つので精一杯、スーパーはカートを引いて母についていくので精一杯だった。

そもそも、うつを発症したばかりの時の私の生活は、母が帰宅する18時頃までベッドから出ず(出られず)、母が帰宅して玄関を開けたのを確認すると、「おかえりー!」とその日一日の中で一番の頑張りを発揮して声を振り絞り、その後なんとか下までおりて、何事もないように夕飯の手伝いをするような感じ。それだけならまだ大丈夫だったが、一緒に料理をする母に、何食わぬ顔をして雑談に付き合わないといけないタスクもあって、それが辛かった。その時はすでに普通のペースで会話することがすでに困難になっていて、なおかつ私は平日は予備校に通っているテイだったので、そういう“設定”も話の上で失ってはならなかった。

後から母から聞いた話だが、母は私が予備校に通わなくなっていたことをすでに分かっていたらしい。朝洗濯物を干す時に、そばに置いてある原付(私の移動手段は原付だった)が、帰ってきてからも朝と全く変わらない様子でそこにあったから。それでも母は、それが娘の選んだことなら、と思って私に何も言わなかったそうだが、そこそこ高い学費を払ってくれたのも親である自身なのだし、一回私は大学受験に失敗してるわけでもう後はないわけだし、なんか言ってくれてもよかったんじゃ?と言うか、なんか親が子どもに喝を入れなければならない瞬間があるとしたら、この時だったんじゃ…?と、それを随分後から聞いた時に、ほんのり思ったりした。そうすれば私だって、堂々と「私は今実はよくわからん病気をしていて、マジで息するので精一杯だ!お願いします!許してください!」と言い返せたのに。

 

自分で救急車を呼び、病院から脱走しようとした。

気がついたら、18歳を終え、19歳を迎え、それも終わりに差し掛かろうとしていた。

この頃の記憶が、ほとんどない。ほとんど家にいたのだから、覚えておくに値するような出来事も無かったのだと思う。

しかし、(今でこそ、それはただのパニック発作だと認識しているが)だんだんと本当に気が飛びそうになる瞬間に襲われることも多くなっていた。

ある日、死にそう、このまま意識が飛んだらマジのマジで死んでしまうんだ!と家で倒れた時、死に物狂いで救急車をよんだことがある。

ストレッチャーに乗せられ運ばれた救急車の中で暴れながら大号泣し、そして「ごめんなさい、ごめんなさい」を連呼した。なんのごめんなさいなのかは当時も今も分からない。こうやって記憶は残っているが、正気はがっつり失っていたと思う。

市立病院に運ばれた。おそらく重症度が一番低い人が運ばれるところだ。私はただの思春期特有の何かと判断されたのだと分かった。 

処置室の異様に高いベッドの上に寝かせられて、看護師さんに「お母さんに連絡ついて、今から迎えに来るって。」と優しく声をかけられた時、反射的にベッドから飛び降りた。絶対に帰りたくないと思った。部屋から飛び出して、外来の患者さんがたくさん待っているロビーを駆け抜けた。金髪で、裸足で、プーマのジャージを着たブサイクな女が田舎の病院を走っている様が今も誰かの記憶の中にあるのかもしれない。恥ずかしい。とにかくその時は、今母の迎えがきたら、私はまた家から出られなくなってしまうと思った。

私の決死の逃走劇も虚しく、ほどなくして看護師複数人に取り押さえられた。高校生の時に男の力の強さを思い知ることがあったが、この時は、ああ女の力も十分強いな、と思った。

私は母の運転する車の助手席に乗っていた。母は流石に無言。私はいちおう「迷惑かけてごめん」と謝った。母は、「迷惑なんかじゃないけど」とだけ返した。

「私さ、家でて、東京行きたい」

口をついて出た言葉が、これだった。

 

高卒・資格無し・コネ無し・体力気力無しの無能が誕生、そして上京

そこから数ヶ月して、本当に上京した。

母方の祖父の急死も重なって、母は私に何か言う気力も残っていなかった。

大学進学は諦めざるを得なかった。宅浪する自律心はもともと持ち合わせていない人間だった。

普通高校既卒の簿記3級も持っていない人間が就職できるようなところも、田舎には無かった。

私の出身高校は、県内では「勉強の○高」と言われるような、なんというか、勉強したい人が行くような高校で、○高卒です、といえば「え〜!すごいじゃない!勉強ができるのねえ」と親戚のおばさんに言われるような感じのとこではあったが、それはあくまで、その高校を卒業した後に有名国公立大あるいはMARCHあたりに進学して無事卒業し、無事地元の企業に就職できた場合の話であって、私の場合はただのクズである。

県内の専門学校はどこも学びたいことがなかった。私はたった数ヶ月の浪人時代で、「自分がやりたいこと、勉強の為に努力することの楽しさと効率の良さ」を身を以て知ってしまった。

もう地元には私の生きる道は無いと思って、親を説得し、上京してしまった。

その時興味を持てることが、演劇しかなかったというのも大きい。

小劇場の劇団もほとんど知らなかったが、引っ越したその日の夜にはすでにオーディションに参加していた。

 

そんなこんなで今に至る

その後、舞台を何度も踏めて、仲間ができて、自分で公演を打ったり、劇団に入ったり抜けたり、と頑張った。芝居のことを考えたり、うまくいかなくて悩んだり、お金がなくて苦しんだり、でもとても生きた。生きていた。

色々とうまくいかないことが重なって、またパニック障害になって、電車に乗れなくなったりして今は地元にいるが、多分しばらくしたらまた東京に戻る。私は東京が好きだ。

 

地元の大学に進んだ妹

妹は、私の失敗を上手に活かすように、地元の公立大学に現役で合格した。

あまり給料は良くなさそうではあるが、資格を取れて、手に職が付けられる学部だ。

そして今度、県外の大学院に進学する。大学史上初の推薦での合格らしい。優秀だ。特にそれによる奨学金制度とかは無いようだが、きっと推薦をもらえるって、それだけで十分すごいことなんだろう。

母はそれにすごく安心して、誇りを持っているようだ。私に看護に行けと言ったことも、院には進ませられないからそのつもりで進路を考えろと言っていたことも、感動するくらい綺麗に忘れている。

先日、お茶を飲んでいた私に母が雑談の流れでこんなことを話した。

「大学なんてさ、やりたい勉強があったら行けばいいところだしさ、はじめからやりたいこととか勉強したいこととかが無くてもさ、大学行きたいって思ったら行けばいいじゃんね(行けばいいものだよね、のニュアンス)。高校生の時から、そんな色々決められないもんね。やりたいことを見つけるために進学するって言うのも、立派な理由だと思うな〜」と穏やかに話した。

目が点になった。でももう、母の二転三転する意見と、それに振り回される(気分どころか、人生の選択さえも)ことも、もう慣れてしまったから、憤るほどの気持ちももう生まれなかった。

 

母よ、どうしてその発想に、私の時に至らなかったの。どうして私にそんなことが言えるの?私の人生が、私の好き勝手に、自分の好きなことだけして生きているように見えるのかな、もしそうだったら、それは勝手にそうなったんじゃ無くて、私が私なりに頑張ったからだよ。大学に進むことだけが正解だった世界から抜け出して、自分の選択を正解にしていったのは私であって神様ではないんだよ。

私が一番欲しかった言葉をなんで今さら言えるの。その前に一言、謝って。ごめんねって言って。でもあなたはそんな高等なことができる人間じゃ無いって言うのも、私はよく知っています。

 

頭の中をこんな言葉が駆け巡って、でも私はもう怒ったりはせず、手元のマグカップに残ったお茶をゆっくり飲み干して、部屋に戻った。

母が悪いんじゃ無い。そんな母と今一緒の空間にいた私が悪いだけだった。

院にまで行けた妹よ、おめでとう。教授への理不尽なメールへの返信を一緒に考えた時、私も学生になれた気分で楽しかったです。

 

私はどう生きるか

2ちゃんねる創設者ひろゆきの界隈の言葉で言えば、私は無能である。

現在、全国展開している小売業の末端スタッフとして勤務しているけれど、メール作成、レジ打ち、在庫管理、応対、売れ筋の操作、品出しなど、資格にもならず履歴書にも書けない技術ばかりが積み上がっていて、ああ低所得、底辺…という気持ちになりながら、それでも上司とうまく話せるよう努力し、新人スタッフをやる気にさせるよう努力し、ミスをしないよう努力し、体調不良でなるべく欠勤しないよう努力している。

人生は続く。現在24歳。数年後には、今の自分が想像していなかったところにいるんだろう。今までがそうだったように。

目の前のことを頑張り続けるしかない。

 

 

2020-12-02

母と妹とスシロー行った。大好きなブリが大きくて安くて嬉しかった!でも家族と食事に出かけた時の気まずさとかイラつきとかなんなんだろう…。こないだ好きな人と行ったスシローの方が倍美味しかった…。母は肩が結構痛いみたいで1人で着替えも満足にできないくらいなのに、病院に行ってくれない。それを言うと時間が無いからと逆ギレされてしまう。介護することになったら負担かかるのはこっちなんだけれど。家庭や子どもたちの未来のために病院に行って欲しい。関節はすぐに良くならんから。

 

今年の年越しも実家だ。実家に住んでるし、コロナで派手なこともできないから仕方がない。去年の年越しの記憶がない。31日はバイトのラスト出勤日だった。あとは普通にダラダラしてたかも。来年の年越しはどうなるのかなとか考えてたのかな。年越しを一緒に過ごしたい人と好きなように過ごせるっていうのは若者の特権のひとつだと勝手に思ってる。けどなかなかそんな都合のいいことはむずかしい。一昨年までが恵まれすぎていた。

 

なるべく早く実家を出たい気持ちと、実家にいるうちに何か出来るんじゃないかという気持ちがある。自分の好きなことに時間やお金を割けるのは実家暮らしの方が有利だから。でも、自分の好きなことを好きなだけ深められるのは東京じゃないとむり。演劇やダンス、色んな人と出会うこと。地元の新しく出来たダンス教室のレッスンチケットをドカっと買ってしまったが、相性のいいジャンルに出会えなくて、毎週コンスタントに通うこともできないしで、あまりやる気が無くなってる。高校時代の私の生きがいはダンスしかなかったけど、それから世界の拡がった今の私にはダンスの他にも好きな場所があるのだ。20代も中盤に差し掛かり、体は老いに向かい始めた。あとは死に向かうだけ、やっとここまで生きた。多少踊れなくなったくらいではもう何も思わない。元々踊れないのだし。またいつか演劇に出て踊らないといけなくなったときにダサい動きだけはしたくない、それしか無い。ダサいっていうのは、下手とかじゃなくて。技術の話でもないのよね。これは。たましい。

 

 

 

2020-12-29

今年を振り返ると、何だか私の人生ではないようなことばかりが起きて、私の人生らしくない日々を送っていたと思う。地元に根を下ろして生活をした。同じひとつの仕事をやり続けた。職場の人と仲良くなった。私のことを傷つけまいと大事に思われることの安心感を知った。演劇をやらなかった。本を読まなかった。

 

私は、以前の東京での生活を愛していたし、今も想っている。演劇が出来る。知らない演劇や同業者がたくさんいる。大きな本屋さん、服屋さんがある。24時間いつ外にいても怪しまれることも無い。時間刻みで毎日違うスケジュールをこなし、毎月新しい人と出会った。お酒を毎日飲めた。徒歩圏内のスーパーを選ぶことが出来たし、肉屋さんに寄る時間が好きだった。私をいびってたおばさんも、あだ名しか知らない男の子も、お客さんの前で私にキレたバイト先の兄さんも、みんないつしか消えた。

 

子どもの時から、毎日同じ時間に、同じ場所で、同じことをするのが苦痛で仕方がなかった。小学生の時にはもう「大人になったら、こんな生活は絶対に送らない。同じことをするのが本当に辛い。」と何度も何度も思った。毎朝起きると、酷い吐き気に襲われて、それでも何とか支度をしていた。そして遅刻や欠席が多かった。

この間、母から、私が夏休み最終日まで宿題を全くやらなかったことがあったときいた。それを知った当時の母は憤怒して、私のランドセルやら何から何まで外に放り投げたらしい。全く覚えていない。事ある毎にランドセルとかを外に投げ出されて、自分の体も外に引っ張りだされてたのは覚えてるけど(虐待と言うよりも、昭和ぽい教育である)、宿題を全くやらなかったのは覚えてない。でも、とても私らしいなと思って爆笑してしまった。そしたら母はまた怒った。(この生き物のことは、死んでもよくわからないし、分かりたくもない。)私は生まれてから大人になっても、夏休みの宿題を全くやらないまま新学期を迎える。死ぬまでそうだ。歳ばかり食って、“先生”たちは皆年下になり、私に何も言えなくなって、私は歳を追うごとに変人扱いされて、死んでいく。

やりたくないことは、本当にやりたくないし、出来ない。実際にパフォーマンスがめちゃくちゃ下がる。高校3年になっても、勉強をやりたくなさすぎて、それでも頑張って無理やり机に向かうと涙が出てきた。バイトも調子が悪いとありえないミスばかりしていた。(今もそう)

 

コロナで演劇界全体が足止めを食らい、コロナ関係なく演劇を休止していた自分はなんだかラッキーだったのか何だったのか…もう「なんだったのか?」がテーマの2020だった。

演劇のワークショップにはいくつか参加した。でも、舞台には一回も出演していない。ここでしか言えないことだが、“このご時世”の中で公演を打つことに対して、本当にそれは志が高くないと出来ない事なのはもちろん、演劇好きにとってこの上なく嬉しいことなのだ、尊いことなのだ、という認識ではいる。でも私は、どこか心が痛んでしまう。その理由はうまく言葉にできない。どうしてそこまでして、と疑問を抱いているのか、単純に自分が参加出来ない(みにいけない)嫉妬心なのか、「コロナ禍なのに頑張っている公演」という前提が無意識のうちに働いてしまうからなのか…。

私は、自身と演劇の距離のとり方を掴めないままでいる。もうスキルは一旦全てゼロになってしまっているし。いや、私のスキルなんて、技術なんて立派なものではなく、もともと小手先の誤魔化し術でしかなかったが。

魂がしびれ、身体中にアドレナリンが駆け巡り、溢れる感情が自我さえ置いてけぼりにしてしまうような、そういう芝居を、もう何年も観ていない。もっと劇場に行かないといけないね。まあ、いうて私なので、目と鼻の先で「あーーー!!」とでかい声出されればそれだけで上記の現象は起きます。

 

「安定」「事件が起きないこと」「穏やかなこと」「静かなこと」を望み、故郷に帰ってきて、もう1年半が過ぎた。山の麓の街灯もない田園を、オンボロの軽で走る生活を、私はどう思っているのか、自分でも掴めない。コロナを言い訳にして逃げている気がする。私のことだからきっとそうなのかもしれない。

諦め、があるのかもしれない。私のような人間が、自分の好きな場所で好きな人たちと暮らすなんてそんな贅沢はいけない、と思っている節がある。誰も得しないこの認知の歪み。それと同時に自分だけのメシアをきっと求めていて、最悪である。

 

私に抱っこされて、赤ちゃんみたいに寝ぼけた猫を愛でる時間だけが私を救ってくれる。

 

 

井の頭公園こっそり吟行

定型詩のリズムが頭から消えないように訓練する

 

〇妹の安産守り買う小雪(しょうせつ)

 

→とはいえ1句目から字余りしました。悪い意味で抽象的です。


〇弁財天  プラ笊の網目は黒ずんで

 

→俳句の写実的であるという特徴を上手くつかめていないので、ただ見たものを詠んでみました。う〜ん


〇夕暮れや  鳥の寝方は皆おなじ

 

→動物園で色んな種類の鳥をみたけどみんな寝方が同じでした。


〇擬態するオオサンショウウオみたいな愛

 

オオサンショウウオの水槽で、最初どこにいるのか分かんなくて、探してたら水槽のガラスにくっついてでーーんといたのでびっくりしました。たまたま女子が好きそうな表現が定形に収まりましたね。という感じ。


〇亀に見入るお前の爪の短さや

 

→同行したひとがカミツキガメをキラキラしていた目でみていたので、なんでカミツキガメにそんな喜ぶんだろうとちょっと距離を置いたところです。個人的には一番好きな歌です。


〇武蔵野の冬憂う猿の背中かな

 

→「武蔵野の」って入れるとそれっぽくなってかっこよさそうと思ったので作りました。猿は怖かったです。


〇閉園の間近にひかる聖樹かな

 

→そのまんま。


三鷹へと伸びる街道染まりゆく

 

→最後にJPOPみたいなんきたな。なんかしめとこうとおもった。よくないです。

 

2020−10–02

最近やっと自律神経の機微を掴めるようになってきた。

寒くなったきたからか、また狂い始めており、夜は朝方まで寝られず、起床も下手になり、目が覚めると手汗と足汗と吐き気がある。

今日は休日なので、外にヨガマットをひいて、ストレッチをゆっくりした。ここ数日風邪で寝込んでいたので、体は十分に固くなっていた。

 

仕事のこと。

職場は入ってしばらくまでは超絶ホワイトだったが、コロナ禍による売り上げ悪化、創業以来の赤字、それに伴う人件費の削減による人手不足によって、パート・アルバイトの善意によってのみ営業が成り立つ雰囲気に包まれ、案の定知らぬ間に黒の匂いが立ち込んで、何時間かの残業を生気を失った脂汗まみれの顔でこなした後、「もう今日はあきらめましょう」をみんな合言葉に退勤の打刻をする毎日である。

残業をするのが当たり前だと思わないで欲しいが、働いた分の給料は1分単位で発生するし、時間を切り売りする立場の人間として考えれば妥当以外の何物でもない。が、現在の(つまり人手が明らかに足りていない今の)業務内容、求められること、上司との兼ね合い、今後に関しては時給は変わらないのにやらされる業務が増え、責任も重くなることを考えると、「辞めたい、時給が割に合っていない、明らかに」の気持ちで頭がいっぱいになる。

パートタイムジョブなんて、地球が滅びるまできっとこの様であることもわかっているのに。

私の上司は、この職場一本で10年やってきた大ベテラン。30はすぎているけれども、女の子のマインドを忘れておらず、自分は機嫌が悪い時周りに好き勝手な態度をとるが、他人にそれをされると秒で泣き、仕事が終わらないと泣き、みんなやる気がないと泣く。下っ端(私)に割り振ればいいことも自分一人で抱えがち。でも仕事はできるし、引き継ぎもいつも丁寧、説明もわかりやすい、その人にあった仕事を割り振ったりとか、、、、まあ、、、、、10年いれば、誰でもできるわそんなこと!!!!笑

リスペクトできるところが、「10年やってる」ところしかない。私が10年続けられてることなんて、趣味でも何もないもの。

なんかこう言うこと考えてると、私が職場への不満やストレス溜め込むことの天才なのではないかと思えてくる。批評精神とかそんな高尚なやつじゃない。ストレス、ストレス。

今ちょっと、またパニ障とか引きこもりとかにならんかめちゃくちゃビビっている。もうめちゃくちゃビビっていると言う時点で実はあまり健康ではない。わかっている。しかし辞められない。人は変化を恐れるんだね…ひしひしと感じております。

うちの店で扱う商品はまあまあ好きだけれども、商品のファンと店のファンは違うよ…。近々辞めちゃおっかなぁ〜〜〜

 

 

 

 

 

2019-09-07

今欲しいもの

・薄い鉄板

・ガーゼ

・真っ白のシーツ

・自分の部屋

・猫の小屋

・鉄分のサプリメント

 

去年の今頃は働き詰めで、中等度くらいの熱中症と重めの貧血と飲んでた薬の副作用がガッツリ重なり、高熱と目眩と吐き気と記憶障害で地獄だったのを思い出した。

今日は星がよく見えた。雲も月もなかったから。猫はやわらかい。抱っこすると困ったような声で鳴いてかわいい。右耳だけにあけたピアスようやく最近痛くなくなってきた。お母さんのピアスあけエピソードはじめて聞いて笑った。

このくらい何も無い土地でないと私は生の実感を得られないのかもしれないという不安。都市が、人の作り上げた幻想だということ。

 

私には道具がない。歌や絵や造形ができない。それに代わるものがきっと料理なんだと思う。

 

レタスの裏にくっついてたぷくぷくの青虫や、シーツの隙間にいたでかい蜘蛛をみつけた。

古い家に近づくと香る、雨風に晒された木材と土埃の混ざった匂いや山の匂いを嗅ぐと、自分の生まれてからこれまでの中で、いちばんここがふるさとな気分になる。私はこの匂いの中で畑で遊んでたしおばあちゃんと柿を取っていたし歳をとったマルチーズと遊んでた。

 

私は何があっても命をかけない。というか、なにか特定のものに命をかけることはしない。これはしばらく言ってることだろうな。毎日は既にゆるやかな自殺の繰り返しだということになぜ気が付かない?眠いのに早起きすることも満員電車に乗ることも嫌な人と一緒のオフィスで働くことも溜まって溜まって寿命を縮めていくと思う。嫌なストレスで長生きできるわけないもんと思う。包丁で切ったり線路に飛び込んだりすることだけが自殺じゃない、自分を甘やかすこと以外はすべて生命への攻撃だ。生活はゆるやかな自殺だ。だったら普通に演劇することだって、紛れもなくそれは、命を燃やすことだろうが。

もし、本気になる、の比喩として、命をかける、と言っているのであれば、それは単に日本語のミスです。

 

 

今年の目標「オンリーワンでナンバーワンになる」だったんだけど、何における話かちゃんと考えてなくて詰んでる。都合のいい時だけこの言葉がチラつく。厄介な文句。

 

 

悪気があってすることなんていっこもないよ。全部悪気がない。だからタチが悪い。昨日の自分と今日の自分の能力値の差の酷さに悩んでる。

 

 

 

 

 

2020-09-02

毎日の中にほんの一瞬だけ、空気の無くなる瞬間が、ある。

仕事中にミスをしたとき、好きな人の口元の力が抜けるとき、腿の柔らかさが増したとき。

 

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ああ私はいつになったら私から解放されるのだろう。

本当に興味のあることしか頑張れないとか、片付けられないとか、優先順位がつけられないとか、光や音に敏感だとか、時間を守るのが苦手だとかの発達障害らしい気質と向き合い社会と折り合いをつけていくことにも疲れてしまって、社員もどきのもどきの分際で「早番は出られません。起きれないからです」の一点張りで社会人の面を下げていたりするのだ。

 

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最近思い出すつらいこと。

高校3年間の体育で男女合同でプールの授業がそこそこガッツリあったのだが、クラスで私含め二人だけ、旧型の上下が繋がったスクール水着を着ていた。しかも私は胸のところにパットも付いておらず、家に余っていた普通の下着用のパットを不器用に縫い付けて使っていた。ちなみにもう一人はとてもスタイルが良くて、それも私を恥ずかしい気持ちにさせた。その子にはなんの罪もないけども。

母に「みんなみたいに上下セパレートになっていて、下は短パンのようになっているものを買って欲しい」と真面目にお願いしても「そんなのお金が勿体無い。高校なんだからそんなにプールの授業があるわけじゃないし」と言われて終わりだった。たしかに母の言う通りだなあ、でも恥ずかしいなあと思いながら、プールの授業では仲のいい友達にむき出しのパットを見せて笑いをとったりしていた。

普通に考えて、10代後半の女が下着同然の格好をして大勢の異性の視線があるところに居ないといけないのなら、親としては最大限の配慮をしてくれてもよかったのではと思う。別にこれはフェミニズムとかそんな話をしたいんじゃない。(私はネットでそういう話をしないという主義です)。私が男だったら女子の水着姿を舐めるようにきっと見ますよ。

授業の回数が1回でも100回でもそんなの問題じゃかったとも思う。

この出来事に対してはもうこれ以上は何も思わないけど、もし自分の子どもや姪っ子あたりの子が同じように悩んでいたら、私はすぐに上下セパレートで短パンタイプの水着を買ってあげようと思っている。

 

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一人暮らしの私のお守りは、無水鍋のセットだった。

それで煮物を作ると本当に美味しくなったので、特に冬場はいろんな具材で煮物をこしらえた。

土井善晴先生が味噌汁になんでも入れるのに倣って、私は煮物になんでも入れた。

秒針の音さえ大きく感じる寂しく狭い部屋で、自分の作る料理を食べる時間は、なんだか子ども時代のおままごとの延長のようであったし、自己救済のための間抜けな儀式のようでもあって、少なくともあの激しい日々の中では無くてはならない行為だった。

 

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「君はもう何も諦めなくていい」

「君のことを何も知らない人間が君に対し“もっと頑張れるはずだ”などと言うが、聞き入れる必要は無い。君はもう既に努力している」

と大事な友人に言ってもらった。ありがたいね。何も頑張ってないけどね。

 

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