私の病気の話

「看護師になれ」しか言わない母と対立した高校時代

小学生の頃から、心理カウンセラーになるのが夢だった。人の話を聞くのが好きだった。

高校の進路選択も、心理学をはじめ人文学系のところを志望しようとした。が、母には猛反対された。

「手に職を付けられるような学部じゃないと行かせてやらない。」「大学院にはいかなる理由があろうと進ませてやれない、金がない。」

これが母の主張だった。手に職、というのも条件がさらにあり、「国家資格が取れること」「雇用があること」「高給であること」も重要らしく、もっとこちらが問えば、つまりは「看護師になれ(看護学部に行け)」ということだった。

私が、人文学系のところに行きたいなどと言えば、「何の勉強ができるの?」「資格は何が取れるの?」「就職は有利になるの?」と責められ、私は何も返せなくなる。何を言ってもおかしなことを返され、当時の私には母を説得する技術も懐の深さも持っていなかった。そして決まって最後に「だからお前は、看護に行きなさい」のオチが決まりだった。このくだりは、高校在学中の特に後半、ほとんど毎日繰り返されることとなった。

大学は、もともとは研究機関である。研究したい者、あるいは学問も深めたい者が行けばいいところである。それに今の時代、やりたいことが明確になくても、行ってみてやりたいことを見つけたって、いい。そんなところに、資格だとか技術を身に着けるとかを始めから求める方がどちらかと言えばおかしい。けれど母にそんなことが理解できるわけが無かった。

しかも、私は看護師には向いていないと幼い頃から自覚していた。

幼少期に入院したことが何度かあって、その時に小児の看護師さんに大変お世話になった。とてもよくしてくれて、たくさん褒めてくれて、いつもニコニコしてて、退院するときには、キラキラのビーズとリボンと上手なイラストで飾り付けた可愛いメッセージカードまで用意してくれて、本当に嬉しかった。それと同時に、こんなに大変な仕事は私にはできないと悟った。

高校時代の私は今までの人生の中でも特にひねくれており、高齢者に対する医療制度への不信感が大きかった。私が看護師になれば、相手をするのはきっと高齢者だ。多分私は、自分の仕事に誇りを持つことができないとも分かっていた。裕福な国である日本の、あとは死ぬしかない高齢者の医療に関わるくらいなら、戦地で苦しむ子どもたちの手当をしたい、日本の医療に関わるなら高齢者よりも(高齢者は他の人が助けるのだから私が特別関わる必要は無い)助けたい弱者が多い(元々心理カウンセラー志望だった)、それができないなら何なんだ?みたいな、今考えればそれもアホっぽいのだが、とにかく私だって思春期だった。

 

数年後に自分はADHDとわかるのだが、看護学部に行きたくなさすぎて受験勉強に取り組むことができなかった。興味のないこと、やりたくないことを耐えて取り組むことが苦手なのである。受験勉強は、暗記すればカバーできる部分も大きい。過去問を解けば傾向を掴めることによって点数が上がる。地頭の良し悪しもあるが、単純に努力量で何とかできることが多い。

しかし当時の私は、机に向かった瞬間に涙が出てきて勉強どころではなくなってしまう。土日は起きてから日が沈むまで布団の中で泣いていた。

私はやさぐれて、学校も休みがちになって、模試も真面目に受けなくなっていた。

みかねた母が「もう、お前の好きなところに行っていいよ」と私に言った。目が点になった。今までの私の気苦労を返せ、それしか思えなかった。だってもうその時は3年生の11月、いくら今から頑張ったって、国公立はどこも受かりはしない。

悲しくなるだけだから、と大学調べも全くやっていなかった。全国にどんな大学があるのか全く知らなかった。

 

やっと受験勉強に打ち込める

高校卒業後、大学に落ちた私は予備校に通わせてもらうことになった。

まずは大学調べから。高校受験時に私の家庭教師をしてくれた知り合いに相談したら、「特にここがいい!ってのが無かったら、東大を目指せ」と言われて、「アホか?」と思い、ちゃんと100パーセント自力で志望校を決めようと気合いを入れ直した。

勉強を頑張りまくって東大を目指すことがアホなんじゃなくて、東大の二次試験対策だけで1年以上はかかるのだ。東大を目指す人たちを高校生のときに間近で見ていた。私には時間がない。勉強がめちゃくちゃできる人だって実際のセンターで足切り食らってあたふたする可能性だって十分あるのだから、私が東大を今から目指すのはアホすぎと思った。この世界は残念ながらドラゴン桜ではない。

興味のある学問や、それを学べる学部のある大学を偏差値順に見ていき、現実的に目指せるところを絞った。

すると不思議と勉強に取り組めた。ペンを握ったり、テキストを読むことが苦じゃないのだ。感動だった。

そうか、みんな自分の行きたいところに行くための勉強をしてたからあんなに頑張れていたんだと、そのとき初めて気が付いた。

何度か受けた模試の結果も、悪くない。油断は禁物だが、このまま勉強を続ければきっと大丈夫。浪人になっても成績が上がることは無いとよく言われるが、私の場合はこれ以上下がりようが無いのだから、あとは上がるしかない。勉強すればするほど点が伸びた。そのくらい元々の成績が悪かった。でも楽しかった。予備校の先生の授業も本当に面白かった。

 

そしてうつ病

梅雨の時期に入る直前にうつ病を発症し、間も無くして寝たきり状態になった。

板書をノートに写せないところから始まった。板書を見て、ノートに写そうとする段階で、その内容を忘れてしまう。先生の話のスピードについていけない。あれおかしいな、気分転換でもするかと外を散歩するとなんだかフラついてまっすぐ歩けない。毎回参加していた授業に参加する気が起きない。何なんだこれ、もしかしてうつ…?と、疑い、すぐに学校近くの病院を予約した。本当にうつなら早く薬をもらって勉強に集中したい、うつじゃなくて甘えならそう言われておしまいでいいと思ったのだ。

初めは親にも黙って病院に通っていたが、日に日に病状は悪化し、自力では家から車で30分の病院に向かうことすらできなくなってしまい、結局親に精神科通いをカミングアウトすることとなった。

みるみる病気は悪化し、一番ひどい時は、3歩も歩くことができなかった。数歩足を動かしただけで、全身の力が一瞬にして全て抜けて、バタンと倒れてしまう。気が飛ぶわけではない。ただ、倒れてしまうのだ。壁やテーブルを支えに移動していた。

朝、目が覚めると、激しい絶望感に襲われるのと同時に、指を一本も動かすことができない。動かせるようになるまで3〜5時間かかる。親が私が起きているか心配して、1階から2階にいる私に向かって「起きてるけー!」と声をかけてくるが、返事なんてできないし、そもそもその声も頭に響いてとても辛い。

一日中、部屋のカーテンを閉めていた。そしてかけ布団を頭まで被る。気持ちが塞いでいるから、ではない。日光が辛いからだ。眩しすぎるのだ。

死にたいとかまで思うことは無かったが、勉強をしたいのに机に向かうことすらできない悲しさがあった。他の予備校生達は今日も勉強をできているのに、私は横になっているので精一杯の毎日。模試は現役の時のE判定揃いだったのが嘘のように、現役の時よりも偏差値の高い大学を志望していたがA〜B判定が多く、第一志望こそC判定だったが、このまま順調に勉強していけばどこかしらは受かりそうと言う予備校の担任の見立てだった。

でも病に伏せ、模試を受けることさえできなくなった。英単語の他動詞、自動詞もまだダメなところがあるのに、古文の助動詞だってまだ不十分なのに、小論文も書かないと衰えてしまうのに…現役の時には一切勉強に手をつけていなかった分、私は努力しないと合格できないのに…今日も何もできなかったな…という悲しさと焦りの鱗片が、まだ24歳の私の体のどこかに、ガラスの小さな破片のように残っている気がする。

今まで精神疾患に縁のなかった母は、はじめ、何もしない私を外に連れ出そうとした。温泉、整体、スーパーの買い物…本当にちょっとした用事ばかりではあるが。

“気分転換”をすれば、少しは改善されるのではないか、という母の考えだったらしい。

一度病院に母が同行し、「私はこうやって娘を外に連れ出して、よくしようとしてるんですが!」と言うようなテンションで話したら、先生が「え!?(こんな病状の人に)そんなことやってるんですか!?かわいそうです。お母さん、逆効果です。今すぐやめてあげてください」と言ってくれて、ああ救われた…もう無理して外に出なくていいんだ…と、困惑した母を尻目にホッとしたのも、昨日のことのように覚えている。温泉はお湯の温度に耐えるので精一杯、整体は整体師の先生の話に相槌を打つので精一杯、スーパーはカートを引いて母についていくので精一杯だった。

そもそも、うつを発症したばかりの時の私の生活は、母が帰宅する18時頃までベッドから出ず(出られず)、母が帰宅して玄関を開けたのを確認すると、「おかえりー!」とその日一日の中で一番の頑張りを発揮して声を振り絞り、その後なんとか下までおりて、何事もないように夕飯の手伝いをするような感じ。それだけならまだ大丈夫だったが、一緒に料理をする母に、何食わぬ顔をして雑談に付き合わないといけないタスクもあって、それが辛かった。その時はすでに普通のペースで会話することがすでに困難になっていて、なおかつ私は平日は予備校に通っているテイだったので、そういう“設定”も話の上で失ってはならなかった。

後から母から聞いた話だが、母は私が予備校に通わなくなっていたことをすでに分かっていたらしい。朝洗濯物を干す時に、そばに置いてある原付(私の移動手段は原付だった)が、帰ってきてからも朝と全く変わらない様子でそこにあったから。それでも母は、それが娘の選んだことなら、と思って私に何も言わなかったそうだが、そこそこ高い学費を払ってくれたのも親である自身なのだし、一回私は大学受験に失敗してるわけでもう後はないわけだし、なんか言ってくれてもよかったんじゃ?と言うか、なんか親が子どもに喝を入れなければならない瞬間があるとしたら、この時だったんじゃ…?と、それを随分後から聞いた時に、ほんのり思ったりした。そうすれば私だって、堂々と「私は今実はよくわからん病気をしていて、マジで息するので精一杯だ!お願いします!許してください!」と言い返せたのに。

 

自分で救急車を呼び、病院から脱走しようとした。

気がついたら、18歳を終え、19歳を迎え、それも終わりに差し掛かろうとしていた。

この頃の記憶が、ほとんどない。ほとんど家にいたのだから、覚えておくに値するような出来事も無かったのだと思う。

しかし、(今でこそ、それはただのパニック発作だと認識しているが)だんだんと本当に気が飛びそうになる瞬間に襲われることも多くなっていた。

ある日、死にそう、このまま意識が飛んだらマジのマジで死んでしまうんだ!と家で倒れた時、死に物狂いで救急車をよんだことがある。

ストレッチャーに乗せられ運ばれた救急車の中で暴れながら大号泣し、そして「ごめんなさい、ごめんなさい」を連呼した。なんのごめんなさいなのかは当時も今も分からない。こうやって記憶は残っているが、正気はがっつり失っていたと思う。

市立病院に運ばれた。おそらく重症度が一番低い人が運ばれるところだ。私はただの思春期特有の何かと判断されたのだと分かった。 

処置室の異様に高いベッドの上に寝かせられて、看護師さんに「お母さんに連絡ついて、今から迎えに来るって。」と優しく声をかけられた時、反射的にベッドから飛び降りた。絶対に帰りたくないと思った。部屋から飛び出して、外来の患者さんがたくさん待っているロビーを駆け抜けた。金髪で、裸足で、プーマのジャージを着たブサイクな女が田舎の病院を走っている様が今も誰かの記憶の中にあるのかもしれない。恥ずかしい。とにかくその時は、今母の迎えがきたら、私はまた家から出られなくなってしまうと思った。

私の決死の逃走劇も虚しく、ほどなくして看護師複数人に取り押さえられた。高校生の時に男の力の強さを思い知ることがあったが、この時は、ああ女の力も十分強いな、と思った。

私は母の運転する車の助手席に乗っていた。母は流石に無言。私はいちおう「迷惑かけてごめん」と謝った。母は、「迷惑なんかじゃないけど」とだけ返した。

「私さ、家でて、東京行きたい」

口をついて出た言葉が、これだった。

 

高卒・資格無し・コネ無し・体力気力無しの無能が誕生、そして上京

そこから数ヶ月して、本当に上京した。

母方の祖父の急死も重なって、母は私に何か言う気力も残っていなかった。

大学進学は諦めざるを得なかった。宅浪する自律心はもともと持ち合わせていない人間だった。

普通高校既卒の簿記3級も持っていない人間が就職できるようなところも、田舎には無かった。

私の出身高校は、県内では「勉強の○高」と言われるような、なんというか、勉強したい人が行くような高校で、○高卒です、といえば「え〜!すごいじゃない!勉強ができるのねえ」と親戚のおばさんに言われるような感じのとこではあったが、それはあくまで、その高校を卒業した後に有名国公立大あるいはMARCHあたりに進学して無事卒業し、無事地元の企業に就職できた場合の話であって、私の場合はただのクズである。

県内の専門学校はどこも学びたいことがなかった。私はたった数ヶ月の浪人時代で、「自分がやりたいこと、勉強の為に努力することの楽しさと効率の良さ」を身を以て知ってしまった。

もう地元には私の生きる道は無いと思って、親を説得し、上京してしまった。

その時興味を持てることが、演劇しかなかったというのも大きい。

小劇場の劇団もほとんど知らなかったが、引っ越したその日の夜にはすでにオーディションに参加していた。

 

そんなこんなで今に至る

その後、舞台を何度も踏めて、仲間ができて、自分で公演を打ったり、劇団に入ったり抜けたり、と頑張った。芝居のことを考えたり、うまくいかなくて悩んだり、お金がなくて苦しんだり、でもとても生きた。生きていた。

色々とうまくいかないことが重なって、またパニック障害になって、電車に乗れなくなったりして今は地元にいるが、多分しばらくしたらまた東京に戻る。私は東京が好きだ。

 

地元の大学に進んだ妹

妹は、私の失敗を上手に活かすように、地元の公立大学に現役で合格した。

あまり給料は良くなさそうではあるが、資格を取れて、手に職が付けられる学部だ。

そして今度、県外の大学院に進学する。大学史上初の推薦での合格らしい。優秀だ。特にそれによる奨学金制度とかは無いようだが、きっと推薦をもらえるって、それだけで十分すごいことなんだろう。

母はそれにすごく安心して、誇りを持っているようだ。私に看護に行けと言ったことも、院には進ませられないからそのつもりで進路を考えろと言っていたことも、感動するくらい綺麗に忘れている。

先日、お茶を飲んでいた私に母が雑談の流れでこんなことを話した。

「大学なんてさ、やりたい勉強があったら行けばいいところだしさ、はじめからやりたいこととか勉強したいこととかが無くてもさ、大学行きたいって思ったら行けばいいじゃんね(行けばいいものだよね、のニュアンス)。高校生の時から、そんな色々決められないもんね。やりたいことを見つけるために進学するって言うのも、立派な理由だと思うな〜」と穏やかに話した。

目が点になった。でももう、母の二転三転する意見と、それに振り回される(気分どころか、人生の選択さえも)ことも、もう慣れてしまったから、憤るほどの気持ちももう生まれなかった。

 

母よ、どうしてその発想に、私の時に至らなかったの。どうして私にそんなことが言えるの?私の人生が、私の好き勝手に、自分の好きなことだけして生きているように見えるのかな、もしそうだったら、それは勝手にそうなったんじゃ無くて、私が私なりに頑張ったからだよ。大学に進むことだけが正解だった世界から抜け出して、自分の選択を正解にしていったのは私であって神様ではないんだよ。

私が一番欲しかった言葉をなんで今さら言えるの。その前に一言、謝って。ごめんねって言って。でもあなたはそんな高等なことができる人間じゃ無いって言うのも、私はよく知っています。

 

頭の中をこんな言葉が駆け巡って、でも私はもう怒ったりはせず、手元のマグカップに残ったお茶をゆっくり飲み干して、部屋に戻った。

母が悪いんじゃ無い。そんな母と今一緒の空間にいた私が悪いだけだった。

院にまで行けた妹よ、おめでとう。教授への理不尽なメールへの返信を一緒に考えた時、私も学生になれた気分で楽しかったです。

 

私はどう生きるか

2ちゃんねる創設者ひろゆきの界隈の言葉で言えば、私は無能である。

現在、全国展開している小売業の末端スタッフとして勤務しているけれど、メール作成、レジ打ち、在庫管理、応対、売れ筋の操作、品出しなど、資格にもならず履歴書にも書けない技術ばかりが積み上がっていて、ああ低所得、底辺…という気持ちになりながら、それでも上司とうまく話せるよう努力し、新人スタッフをやる気にさせるよう努力し、ミスをしないよう努力し、体調不良でなるべく欠勤しないよう努力している。

人生は続く。現在24歳。数年後には、今の自分が想像していなかったところにいるんだろう。今までがそうだったように。

目の前のことを頑張り続けるしかない。