羽化したばかりの蝉

夜に用事があったから、家を出ようと玄関を開けたら、まだ消していなかった台所の明かりを目掛けて、蝉が家に入ってきた。

時間がなかったので、うわーーっと思いつつそのまま放置して、出かけた。

帰宅したら、蝉の姿は見えなかったけど、窓を開けてたわけでもないから、どこかに隠れているのは分かった。

1Kの部屋。玄関→廊下兼台所→部屋のよくある間取り。部屋の電気も廊下の電気も消したままにして、玄関のドアを開け放し、外にあるライトに向かって出ていってくれないかと期待した。

しばらくして、気がついたらなぜか、蝉は台所のあかりのところにとまっていた。やっぱり、うわーーーと思いつつ、蝉を見つめる。

小さかった。よく見る蝉の焦げた色ではなくて、もっとみずみずしく、そしてやわらかそうだった。羽化したばかりなのだと思った。

蝉は触った途端にジーーーッと騒いだり暴れたりするのがいやなので、そのままにして、台所と部屋を仕切るドアを閉めて、その日は寝た。

翌朝。カーテンを開けて、そしてドアを開けた。そのとたん、蝉が朝日の差し込む窓を目掛けて飛んだ。窓ガラスに当たって落ちたけど、ジージー鳴いていたので、窓をそっと開けたら、ひゅっと出ていった。

 

それは3日前のことで、それでもまだ私の頭の中にそのエピソードは鮮明にある。別に蝉という生き物が特別きらいなわけでも好きなわけでも、大した思い出がある訳でもない。

でも、あの蝉を改めて見た時に口をついて出た「羽化したばかりだ」の一言と、ドアを隔てて過ごした蝉との一夜のむずむずが、頭にこびりついている。

 

蝉は、七日間しか生きられないからだろうか。

 

あの蝉は、貴重な七日間のうち一晩をうちで過ごしてしまった。可哀想だと思った。羽化したばかりだから、最初の夜だろうか、二回目の夜だろうか、分からないけれど。彼はもったいのないことをした、そう思った。

 

出ていったあの蝉が、ほかの蝉と出会ったとき、この夜のことを話すのだろうか。ほかの蝉は「それは貴重な経験をしたね」と返事をするのかな。貴重な経験かもしれない。ほとんどの蝉は、きっと人間の家に入って留守番したり一晩過ごすことはあんまりなさそうだし。

でもきっと、蝉からしたら、人間の家に入り込んで無駄な一晩を過ごすより、外にいたままで、ほかの蝉と同じように、求愛のためミーンミーンと鳴いてる方がよっぽと有意義だったはずだ。

何を思ったか、ただ「そこに明かりがあったから」と人間の家に迷い込んでしまったのが、結局、運の尽き。だったかもしれない。

 

その蝉に、少し自分を重ねてしまった。

下手な冒険をするよりは、堅実な道を選んだ方がよい。のかもしれないなと思った。

 

私は今、下手な冒険の真っ最中なんだと自覚しているからだろう。

 

蝉よ、せめて後悔はするなよ。この夜が、無駄だったとしても、有意義だったとしても、君はあと数日間しか生きられないことに変わりはないのだ。だったらせめて、後悔はするなよ。