2019/09/10

以下の引用は、さっき(2019年9月10日)の私のツイートです。

 

 

生活がとてもシンプルになって(シンプルにした)、二次的欲求をほぼ排除したら、なんというか仏教的な感覚で日々を送るようになりましたね…本当の意味ではもう何も望んでいないし期待もしていないしなあ、みたいな

 もっとこうなりたい、とか、自分まだまだだめだ、とかあるんだけれど、「理想の自分になれない」=「私はダメなんだ」という思考にならなくなったんだよねやっと  理想になれなくても良いし、なれたらやったね嬉しいね、くらいのノリでいき始めたよ

旬の野菜と果物、ちゃんと暗い夜、清潔なベッド、湯船、猫があって、それらさえあり続けていてくれれば私は暫くは平気で居続けられるのかもしれないと思う 具合がいい時も悪い時もあって、それは天気みたいにコントロールもできないただ雨の日は傘を差すみたいに薬を飲むだけ

自分にもうほぼ期待をしていない、というのが大きいのかもしれない  私は私を裏切り続けてきたので…私のせいで私は苦しんだし  私に生まれなければアホほど辛い思いもせずに済んだ  けどそんなの仕方の無いことだから…私は私にできることしかしません

 

もう少し丁寧に書きたくなったので書く。

 

最近の私はまず、意識して生活自体をシンプルにした。「シンプル」と言う言葉の響きが持つ、無印良品感はあまり好きでは無いし、私がここで言う「シンプル」もそう言う意味合いでは無い。本来の言葉通りの意味だ。他人と会う約束を減らしてみる、とか、着る服のパターンを減らす、とか、化粧品へのこだわりを減らす、とか。はあ、まぁ結局、無印良品感はぬぐい切れなかったな。

そして、生活拠点を変える上で意識したことはもう一つあって、それは人間的な欲求を減らすこと。

私は多分、承認欲求だけは人並み、もしくはそれ以上ある。承認欲求と言うか、「肯定欲求」っていった方が私本人としてはしっくりくる感じがする。その欲は多分死ぬまで消えないだろう。でも前よりは、「他人に良く思われたい」という気持ちが少なくなった。このブログだってそう。「こういう(流行りの)文体やことばを使えばウケる」っていうのはなんとなく分かるし、読み手がいる以上ある程度わかりやすく書く必要もあるんだろうけど、そういうことを考え始めると、素人の私は頭がこんがらがって言いたいことが分からなくなるので、最近は好き勝手に書いてるし喋っている。

 

悟りとは程遠いけど、あるがままを受け容れることが人間として一番抵抗のない行為だと思うし、なるようになるさの精神でその時々の波に乗っていれば知らないうちに面白いところに行き着くんだろうな、というのが、今まで以上に実感を伴って考えていることだ。

いや、そうは言ったって、欲しいものはあるし、今の自分に満足してるかって言ったらそうではない。このままくたばりたくないとも思う。欲しいモノだってあるし、こういう仕事したいとか、こういうとこに住みたいだとか、もっと内向的な部分でも自分に満足はしていない。理想があるのだ。けれど、理想は理想なので、実現できないのが普通だし、ていうか実現できないから理想なのだし、だからその理想から実際が離れているということで落ち込むことはない。ないはずなのに、以前の私は「理想に近づけていない自分…まじでクズ…生きてる価値ない…」と本気で思う人間だった。てか生まれてから大体の期間ほとんどそう。

でももう、そういうこと、つまり理想と現実が全く違うのを痛感することが多すぎて、諦めました。努力はしたいですそりゃね。しなきゃいけないと思う。少しばかりの向上心は必要だと思う。けど、理想から遠くにいたって、それが普通なんだからいいんだよ、元気がある時にえっさほいさ歩いて、元気がないときは這えば良いと思うし、もっと元気がないときは寝れば良いと思う。本気で。

 

そんなようなことを考えるようになったのは、やはり田舎に戻ってきてからである。田舎と東京の距離はやはりあると感じる。だからこそ、自分の知ってる世界はざっくり大きく2つあるっていう感じがしている。この2つの世界を相対的に見れるというのは想像以上に良かったことで、精神的な安定がすごい。人間は「自分にはこれ/ここしかない」と思うといずれ息が詰まる気がする。

もっとちゃんとしている人間であれば、どこに住んでいたって、生活を保つことはできたんだろうが、私は甘えることが何よりも好きなのでできませんでした。

私は親とソリが合わないので、いつかここ(田舎)に居るのがダメになるときがまたやってくる。それは時間の問題。けれどもしばらくは、この比較的穏やかな生活が続くことを祈る。

そうは言ったって、具合が良い時とか悪い時とかよくわかんない時とかはあるし、まぁそれについては、静かに耐えるのが一番良いんだよねやっぱり。それしかないよね。

こんなことを考えたりするのは、もう自分自身に期待をほとんどしていないからかも知れない。一旦、一旦ね、現時点で「自分はこういう人間だ」と割り切ってみることにしたのだ。性格や人格は正確に言語化することはできないと思うんだけど、なんとなくのフィーリングでも、割り切ってみること。違ったら都度直していけば良い。

自分はたくさんの人を傷つけてきたし迷惑もかけてきた。多分、他人よりもひどい。私はそんな自分がやっぱり恥ずかしいし、ずっと申し訳ないと思う。私が私に生まれてこなければ、私はこんな気持ちにならずに済んだのにと思うことさえある。できることとできないことの差が激しすぎたり、感受性が大きくて過敏だったり、とか言うとまた「あ〜そういうタイプの子ね」みたいに思われてしまうし、それも仕方がないんだけど…。

でも仕方ないんだよ、そう、仕方がない。そう思う。そう思えるようになったことが、一番大きなことかもしれない。

今までの私だったら、「仕方がないって思うってことは、諦めるってことでしょ!?ダサくない!?なんとかできるかも知れないんだよ!?なんでやる前から諦めるわけ!?」みたいにすかさず(自分自身に)言うタイプだった。でももう疲れたんだよなぁそういうの。

仕方がない、って言うのは、もう少し言うと、「仕方がなさそう、と割り切る」みたいな意味だと思う。ぱっと見で、なんかここいじるのめんどくさそうだな、みたいな。そこいじるの試みるのであれば、それよりもあっちの簡単に動かせそうなやつから手をつけたほうが効率良くない?っていう風に、仕方がなさそうだな、と感じるのは一旦放っておく、という、力。

じゃあ、その「簡単に動かせそうなやつ」って言うのはつまり簡単で、「今の自分にできること」だ。

「いや、今の自分にできることだけやってたら成長しないでしょ!?!?」と言う気持ちもわかる(私がそのタイプだったので)。が、じゃあ聞くけれども、今の自分にできることを100%に近い状態までやっているのですか。今の自分にできることを8〜9割の達成度を狙ってやるって結構難しいんだと、最近やっと気がついたんですよね。少なくとも私にとっては。

てか、所詮たった一人の人間が、あれもこれも何もかもオールマイティにやるって、普通はなかなかできない。時々できちゃう人もいるけど、不器用な自分がそれに当てはまるかって考えたら…。

だったら、自分にできることをなるべくちゃんとやろうとすることが、結局はいちばんの誠意になると思うんだよね。

今の自分にできること以上の能力が欲しい、と思う向上心を否定するわけではない。その能力は多分、意識せずとも知らないうちに身につくと思うんだよなぁ。どうかな。わかんないけどね。

私が「自分にできることしかしないよ」と言うのは、リスクでもある。人によってはやる気がないと思われるかも知れない。でもそれで良いと思う。だって普通に考えて、自分にできないことってできなくないですか?それに挑戦するって言うのはまた別の話ですし。自分にできることなら、なんでもします、と言う意味合いで言ってます。それを汲み取ってくれない人は多分、使っている日本語が私と違う人なので、近づかないのがお互いのためだと思う。

 

 

細かく書いてみたら、何が言いたいのか分からなくなってきてしまったな。つまり今の私はこういうことを考えて生きています。

 

おしまい