2020-08-12

むしゃくしゃすることが最近多い。それは大切な人の気持ちに共鳴しすぎてしまったりだとか、本を読んでいないせいで自分の気持ちを上手く言語化できないとか、そういういろんな下らない理由のせいで、つまりは具体的な事象には依らないということです。

 

むしゃくしゃしたので、初月無料のYouTubePremiumに加入した。

どの入眠剤も飲めなくなってしまった私は、ASMRを聴いて眠気を待つ。その際にYouTubeの画面が光りっぱなしなのが、小さなストレスだった。

 

むしゃくしゃしたので、ZOZOTOWNでたくさん服を買った。

とはいえ1万円ちょっとで7着。それでも親のスネかじり極低収入底辺労働者にしては大きな金額だった。

仕事では無地の服しか着られないので、あるかも分からないプライベート用に柄のロングスカートを何着か選んだ。私は柄のロングスカートが好き。本当は花柄も好き。ピンクも黒も白も緑も青も赤も、本当はそういうふうに明るくてかわいくてつよくてハッキリしていて、そんな服が好きだ。コーディネートのことは分からない。

 

むしゃくしゃしたので、資生堂のいいスキンケアを買った。

いや私よ、金を使いすぎである。でもいいの、私はぷくぷくとした自分の顔にニキビが乗っかっていることが本当に本当に本当に気に食わない。納得がいかないのだ。だから、この買い物も間違っていない。百万個見えてた毛穴が99万9千個になってる気がする。きたねーーー。

 

静かな山にいる私は、暇だから、将来のこととかを考えてしまって、嗚呼私は結婚もしない可能性が大いにあるし、子どもは好きだけど自分の子がこの世に存在することを想像してみるだけで不憫に思えてしまうし、またそんな自分の卑屈さに辟易した気持ちになってしまう。素直に「子どもが欲しい!」と思える人に憧れたまま燃え尽きてしまうだろう。

 

電話越しに聞く東京が、もう随分と遠くなってしまった。

 

東京にいた記憶はまだ鮮明で、しかし今の生活とは離れすぎており、まるで解離性同一性障害のように別の人格の記憶が自分の中にあるような、そんな錯覚にまで陥るのだよ。

 

は?話はこれで終わりです。

 

人の相談にのった

バイト先に一つ歳上の先輩の女の子がいる。髪の毛がふわふわで長くて、色が白くて、瞳の明るいひと。

数ヶ月前、緊急事態宣言が出る直前の閑散としたお店の隅っこで、「私ね、絵を描いてるんだ」と教えてくれた。

このお店で週五で働きながら、絵を描いては展示会に出したりしているらしい。

「だからね、演劇をやってるっていう廣瀬さんが入った時、嬉しかったんだ。歳も近いしさ」と続けてくれた。

退勤したら誰よりも早く家に帰るのも、絵を描きたい為らしかった。

 


一昨日の閉店間際、私の持ち場の倉庫に彼女が「マジ疲れた〜」とやってきた。

「廣瀬さん、相談があるんだけど」

「えー、なんですか。私に?」

「うんそう。」彼女の返答はいつもサラッと一言で、私はその媚の売らなさと素直さが好きだ。

 


「廣瀬さんはさ、たとえば、すごくすごく憧れてた劇団のオーディションに受けて、でも落ちてしまって、次の年もそこがオーディションやるとしたら、参加する?」と、私のフィールドに落とし込んで質問をくれた。なんとなく彼女の悩みの概要は掴めた。

 


私は、よほどのことがなければまた受けると結論を先に答えて、オーディションの内容にもよるけど、WS形式だとしたら、憧れている劇団の稽古を受けられるだけでも楽しくて勉強やヒントになるし、落ちても何度も挑戦することがひとつのアピールになるし、次いつオーディションやるか分からないし、何かの間違いで合格をもらうことも全然有り得るから、と理由を続けて、でも、劇団や演出家と人間性レベルで合わないと感じれば二度と受けないとも言った。

答えながら、案外自分の中に考えがあったことに驚きつつ、ああ凡庸なことしか言えないなと思って、恥ずかしくて仕方なくなってしまった。

 


彼女は、うんうん、と相槌を打って私のつまらない返答を聞いてくれて、最後に「廣瀬さんに相談してよかった。私、絵をまた出す!去年、誕生日に落選の通知が来て、それがすごく悔しくて、でもそのおかげでこの1年頑張れたんだ」と、話してくれた。

 


「私、全然ためになること言えてないので、多分それは、○○さんの中で“来年に先送りしないで、今年もチャレンジしたい”って気持ちがあったってことだと思いますよー」と照れ隠し(でも本気でそう思った)をした。

 


最近考える。

この人生において一番私が頑張ったことは、演劇だ。でもそれは、消極的な理由による。勉強も大学進学も資格取得も労働も挫折をしまくった私が数年前に選べた選択肢が、それらを一番には問われない表現の道しかなかったから。あと、たまたま私は人前で大きな声を出すことが全く出来ないわけではなかったから。

「演劇するために上京してきたの?偉いね」と(お世辞も込みだろうが)言われる度に、いやいや私は夢を追った訳ではなくて逃げて逃げてここに来ただけなんです、ごめんなさい、という気持ちに苛まれた。

そんな弱い私は、次第に出来た演劇の仲間や先輩方に甘え、頼り、相談し、なんとか何でもないような顔をして板の上に立っていた。

 


そして、演劇からも(精神的、物理的両方で)距離をとっている今になって、表現という意味では同じフィールドのひとの助けになれたことに、なんというか、拍子抜けしてしまった。

 


助けだなんて大げさだけれど、少しでも他人の決断に関わったことが、怖かったけど、でも今まで頑張ったことが人の役に立った気がして、すこし嬉しかった。

 


話はこれで終わりです。

 

 

 

 

 

 

2020/07/17

“過去は過去”と割り切ることができたら、どんなに楽なんだろう。スマートなんだろう。大人なんだろう。

過去は過去、その通りだけども、今も未来も地続きであるから、まったく別物だとは思うことが出来ない。

常に1年前の自分の気持ちと今を照らし合わせながら、過去の自分の未来の見立て(つまり今)が間違っていなかったか確かめている。

内面的なことは予想していたとおりで、しかし周りを取り巻く環境は全く想像していなかったことになっている。でもこれは毎年そういう傾向なので、それ自体は驚くことではない。

 

生まれてもうそろそろ24年。

自分の人生の悩みに悩むのにも飽きてきている。あきらめ?開き直り?分からないけれど。

自分が幸せになるのを止めているのは他でもなく自分なような気がしているのだ。20歳くらいの時の私は、“今、生きているということは神様に生きることを赦されているということ。つまり、生きている限り何とか生きていられる”という自分で考えた語感の悪い言葉を、お守りとして心に彫り込んだ。当時よりはずっと酸いも甘いも経験したけど、今でもそう、なんとか生きていかなければ死んでしまうと思って生活を送る。

 

今回のコロナ禍によって、以前にも増してこの国のことを嫌いになってしまったし、しかし一方で自分という人間を落ち着いて見つめ直すこともできた。

 

罪悪感に襲われて眠れない夜は、ミセスフィクションズ「伯爵のおるすばん」のラストシーンを想起する。ああ私も人生の終わりの瞬間に、あの人やあの人やあの人とも、笑いあって乾杯をしたいよ。

 

 

 

雑記

なんとなく忘れたくなくて、走り書く。

 

きみの鳥はうたえる』をやっと最後まで観れた。

1ヶ月くらい前に観始めて、撮り方と照明がすごく良くて、これは劇場で観ればよかったと激しい後悔に襲われたおかげで、観終わるのにこんなに時間がかかった。

この映画で一番好きなのは、俳優陣の演技も去ることながら、とにかく照明だなあ。。。明け方、カラオケボックス、ぜんぶしっかりと綺麗だ。

 

内容のこと。

三人に通じるのは、“本質的には誰でもよかった”というところ。たまたま近くにいて、たまたま嫌悪感を抱かなかったから、同居するしセックスする。そのまま何となく一緒にいる。

「君/お前じゃないと駄目なんだ」という暑苦しい動機はそこには(基本的に)無い。

たとえばバイト先のムカつく奴を殴った直後に彼女に笑顔を見せたりするのを見ると、こちらは「大したことねえ男だな」とか思いたくなる。

でも一方で、ひとにはいろんな面があるし、たとえば私に好きな人がいて、その人が私の知らないところで何をしてようが何を話してようが関係ないと思ったりするのだ。

十年後、たぶんだけど、彼らは彼らの中の誰とも一緒にいないような気がする。誰か共通の知り合いに、「そういえばアイツ元気してる?」って聞かれても「ああー、最近連絡取ってねえや、たぶんげんきなんじゃない?どこにいるか知らんけど」って返すくらいの。若者の刹那性だ〜。

 

石橋静香演じる佐知子のこと。

石橋さんの年齢を調べたら私と二個しか違わんくてびっくりした。

大人しくて地味目なんだけれど、古着っぽいシェックシャツをダラっと着こなして、クラブで気持ちよく踊って、男慣れしてるけど、してます感は出さないで、はあ、こんな女になりたかったな私はさ。

 

 

 

おわり

2020.5.28(2)

漢方薬を飲み出した。じわじわ効いてくるもんかと思ってたら、一回服用しただけで手足が暖かくなった。

スケジュール立てること、お金の計画を立てること、自分のしんどいラインを見極めること、LINEに返信することがいつまで経っても下手くそでやばやばなまま歳だけ重ねるタイプの人間じゃん私はって最近分かった。

私の目の前にじっとりと横たわるのは、現在というよりも未来。生きているかぎり生き続けないといけないの。膨大な時間が目の前に横たわる。息を吸えばそのドス黒い未来から放出されてる毒ガスが喉に詰まって苦しい。キレたら物に当たって周りを無言で従わす母親に勝手に産み落とされただけなのに、私の人生で起こることは全部私の責任らしい。けれど私は踊ったり恋をしたり舞台に立ったりしている。死にたくなるよな。こういうことネットに書いちゃ多分だめらしい。。わかんないよーー。

 

やっぱり私は住む場所について考えているのだ。私のことを誰も知らない小さな港町の平屋の古民家に住んで、ひっそりとアルゼンチンババアになりたい。それと同じくらい東京で人混みに揉まれながら生活したい気持ちもある。海外は行ったことがないのでわからない。怠け者の私は英語をいつまで経っても話せないだろうし、それよりも自分の身の回りの人間に日本語を教え出すタイプだと思う。はい、いいえ、あなた、私、お腹すいた、好き、嫌い、ほっといて、そばにいて、あったかい、冷たい、ありがとう、ごめん、おやすみ、、、。

コツコツと生きることが一番の近道なのかも。私が一番下手なこと、コツコツ。

 

足の裏に湿布を貼って寝ると疲労回復にいいらしいよ。

沈沈沈沈沈

 

いっそのこと遠くに行ってしまいたい。いやそこでも労働と、きっと辛くて暗いことがあるんだけれど、それでも私がまだ知らない気候の土地に。

 

恋をしている友人から時々届く手紙に笑う。

 

リネン素材の服ってゴワゴワして苦手だけど、仕事で着ないといけない。綿100かパイル地かガーゼ地じゃないと落ち着かん。リネンってなんで、ゴワゴワするしかたいしテカテカだしポワポワするのよ。洗っても洗っても。

 

2020.5.28

好きな人の好きな音楽を好きになってしまう現象は、思い返せば小学生の頃から今までずっと続いている。もう好きではなくなった人の好きだった音楽も、今でも時々聴いたりするし、その度に安心を覚える。

 

私は中学生の時、RADWIMPSが大好きだった。(これは別に好きなひとの影響ではなくて、ユーチューブを観てたらサジェストされた「おしゃかしゃま」に見事にハマったからである。)世代である。

で、RADの定番曲の一つ「me me she」という曲の中に、

「僕が例えば他の人と結ばれたとして

二人の間に命が宿ったとして

その中にもきっと

君の遺伝子もそっと 紛れ込んでいるだろう」

という歌詞がある。当時のユーチューブのコメント欄などではアンチから「キモイ」みたいなことを言われてたと思う。まだクソガキだった私は単純にこの歌詞の言ってることが実感として分からず、よーじろー的な未練ってそんなもんなのかなー、くらいにしか思ってなかった。

今でも実際、未来の自分のこどもにまで昔の恋人の未練やらそれにくっつくあらゆる要素をうっかりでも伝えたくないとは思うんだけど、でも、昔好きだった人の好きだった音楽が私の血の中に少し残っていて、それが全身を巡っていると感じてしまう時がある。

それはもはや、昔の彼に対する想いとか未練では全くなく、どちらかというと、ときめいていた当時の今よりも幼い自分の中のキラキラしたつぶが残ってるということ。

〇〇君の好きだった、あのアーティストのあの曲を、仕事終わりの深夜の車の中で再生する。何年も聴いてなかったのに、口ずさめる。その時だけ私は、セーラー服を着ているんだと思う。

私の好きだったものも、誰かの中に残ってるのかな。多分残ってないと思う。それがいいのでそう思うことにしています。

 

記録

友達と寝る間際にLINEしてて、寝落ちしかけた時になんとなく今夜は悪夢を見る予感がして、でも仕方が無いので寝たら案の定ガッツリ悪夢をみた。

 


明日から3連勤だ。コロナの影響で出勤時間が早まった。さいあくです。

 

 

 

ひねくれてて正直すぎて可愛げがないとか何とか言って私に愛想を尽かす人がいて、しかし私のことをこの上なくまっすぐで良いと言ってくれた人もいて、両方とも絶対正解なんだとおもう。私は私一人しかいないのに人によって印象が真逆なのおもしろい(何この小学生みたいな発見は)。久々にきくちゃんのツイッター苦手って言われたので愉快になっているんです。誰からも好かれる文章は誰からも嫌われないけどぜったいぜったいつまらなくて私はそんなの一生書きたくないしなるべく読みたくもないんだよ。間違ってる文法や単純な語彙不足はだめだけれど。誰かを傷つけたりしたりとか。でもさその人も私のツイートで傷ついたのかな。

どんなルーツがあって私が言葉にこだわるのか分からない。身の回りには私なんかよりずっといい言葉を使う人がたくさんいるけどそれでも私は言葉にこだわることをやめられない。自己満足の世界なのです。ごめんなさい。どんなツイートをしたらいいのか分からなくて、というかツイートするようなことも本当は無いので、最近は一人で勝手に傷つくマシーンになってる。

 


仕事でギフトラッピングをやって、最後リボンをハサミで切る時に自分の指もちょっと切っちゃって、自分で自分を不意に傷つけてしまったショックから、しばらくちょっと立ち直れなかった。

 


東京に拘ってるわけじゃないけど、住む土地くらい何となく選びたい。というか明確な根拠がなくたってきっと私は私の好きな場所に住みたい。だめなの?

しかしここ最近の私は、怒涛の東京生活を送るうちに空いた穴や落としたもの、ついた傷をうめる為に、働き食べ寝て好きなことを好きなだけやっている。

この私が傷ついたとかそういうこと言うと、それ以上に自分は大事な人達を傷つけたり迷惑かけたりしてたの思い出して、ほんとにほんとに自分のことは死ぬまで責め続けないといけない。罪をつぐなうために生きないといけない。けどそれでも私は誰かのことを自分でも想像できないようなことで傷つけたりする。これは懺悔でももはやなくて。誰のことも傷つけなくない。本当は。

 


自分を商売道具として売り込んでいかないといけない仕事に向いてない。私は自分の好きなひとや頑張ってる人達を支えられるようになりたい。美味しいご飯をもっと作れるようになったり、笑わせられるようになったり、もっともっと誠実な態度、ありがとうやごめんねをもっとちゃんと素直に言えるようになりたい。

病的に献身的だと言われたことがある。そうかもしれない。たぶんおばあちゃんを看病してた母を小さい時に何年も見てたせいじゃないかな。かまって欲しくてわざといたずらをして怒られたりする癖もその時ついた。

 


不安なことがいっぱい。人間関係のこともあるし、お金のことも。ここ数年は、好きなことより嫌いなことの方が増えてる気がしてそれもいやだな。

 


とりあえず花粉しんでほしい。

 


おわり。